タグ: 名古屋

6C17907B-1303-47DA-AE32-1FEFABAA62C4ー1ー よりつづき

また、禅坊主やヨガ行者のようなことにも取り組んだ、
それは内的視覚化というが、実際には目の前に無い存在を、
意識の中で捉えて映像を浮かび上げる。いわば自前のVRだ。
これも現代人においては難しい。しかし彼らには培われていた。
これはシュタイナーの講義録では、高次の次元の認識方法であると
語っている。
ところで、人間は誰しも「自前VR」はおよそ日常的に行なっている。
それは特に恋焦がれるとき、心の渇きを癒そうとするとき、
慕う人と出会っている人は常に目の前にその人が居る。
誰かに強烈に想いを寄せるとき、人は必ず「自前VR」に
嵌まり込んでいる。誰でも自然にやっていることだ。
これも彼らはすんなりとやってのけ、観ているこっちまで
それがビンビン伝わってきて、初々しく清々しい気持ちに
させてくれた。そこに身振り手振りはなくとも、言葉なくとも。
ただ想うということがこんなに伝わってくるものなのだ。
 
3DE01903-2364-4736-9CFA-584480297F9D仏教には身読という方法がある。耳で読むのはなく、
口で読むのでも、頭で読むのでもない、身体で読む。
物語を行動して体験的読む。
演劇はかなり贅沢で濃厚な読書なのだ。
これはあらゆる宗教が発生当初から採用してきた読み方だ。
知性というはまりこみ、自分の主観、前提知識や記憶で
観ることによる堂々巡り、成長という言葉と無縁に
させている壁が破られる。
これも演劇がもたらす救いだろう。
 
少し長くなってしまうが大切なことなので
もう少しご辛抱いただきたい。
 
この舞台のお稽古をしている彼らが暮らしたホールの下で
何が起きていたのかは誰も知らなかったが、
あとで先生たちの向き合った厳しい現実を漏れ聞き、
そういったこの学校の現実ともこの舞台は繋がっていたのだと驚いた。
大人の代名詞でもある「分別」や「良識」。また「正しさ」
「崇高さ」「清らかさ」というものは、その質が高まれば高まるほど、
真夏の太陽のように深く濃い闇を作る。
私たち大人は、今質の高さや勝ち負けの基準の変更を迫られている。
指導する方法をより高める時が来たのだ。
それは、圧倒的能力の高さによって相手を打ち負かすことが
できる者が勝者であり、それが人としての崇高さであるという
倫理観をやめることでもある。
そういった自分の高さを誇示して相手の低さを突きつける気高さと、
もう一方にある、他人や子供達において、本人以上に、その本人も
気づいていない崇高さ素晴らしさ、能力の高さに気づき、また引き出し、
それとなく本人に優しく気づかせていく気高さ崇高なる人間性がある。
言うまでもなく、前者より後者ははるかに崇高なことは明白であり、
皆が望むことだ。これには子供たちのほうがすでに
気づいているのだと感じる。
 
相手を生かそうとする。
しかし自分の立場で自分の思い入れで善意をもって
それをやってしまうところにホラー(恐怖)は忍び込んでくる。
この物語の登場人物も、みんな一生懸命お互いにそれをやっていた。
これも、作者の意図であろう。
 
こうして、我々現代人が共有する「はまり込み」から
離脱していくことと、よき舞台とは関係している。
またそれがそのまま観劇によって得られるカタルシスにもなるが、
もう一つ、これから永く毎年生まれるこの学園の舞台が
より良いものになるために、観客のはまり込みを共有したい。
有名な話としては、「8時だよ全員集合」という公開収録の番組において、
観客が「シムラ〜うしろ〜」と叫ぶ逸話がある。
観客が物語に没入するのだ。
今は異質に思えるが、それが珍しくなったのはかなり最近のことで、
昭和の40年代まではむしろ当たり前のことだったし、
何より歌舞伎では「掛け声」や「合いの手」は今も当たり前で、
日本人には馴染みがある。しかし一時期インテリはこれに
しかめっ面をした時期があった。
 
物語の中で起きる出来事に、たまたま居合わせた人というていで
観ることは特に子どもたちにとってはとても優しい観客である。
逆にコチコチに冷静な客観性によって主観的に自分の前提や
記憶や知識をフル回転させて批判的に観る観客は俳優においては
かなり手強く、舞台上での生活する身心に鋭く刺さってくるものがある。
まあそれも一つの緊張感となるから抹殺すべきものではないのだが、
その目線によって一つだけ失うものがある。

それは全く成長しない、今の自分以上のものを発見し
豊になることを失う硬直化した態度である。
これはとても勿体無いことではないだろうか。
せめて観劇の時くらいは、おどろきと無邪気さで、
面を白くして全肯定的に観る、そんな子供たちのような
創造の達人に戻りたい。
目の前の現実は観ている自分の影響を受けている。  
                   
     (生徒の親 ふくめん演出者 CS)

887FFF86-A50D-4106-8341-E04CB4657C1012年生舞台演劇が真新しい北校舎の広々したホールで上演された。
演劇者から見ると、この学校の一番の先生は低学年の子供たちだ。
毎日目にする1,2年生の子供たちは、ただ立ってる姿だけでも無邪気で、
とてつもない創造力に満ち溢れている。
その存在感はどれだけ見ていても飽きず、湯水のように生命力を
与えてくれる。
あれはいつから?どうして失われていってしまうのだろう?
 
千秋楽を迎え、彼らの舞台では一体何が起きていたのか?
それは観劇下さった方々のこれからの人生の中で
育っていくことだろうが、闇に彷徨わせてはならないので、
この物語の作者の意図をお話ししたい。
作者は宮沢賢治先生であるから、賢治先生のこの作品の
創作の意図ということになる。
それはズバリ、元々は人間だった人たちが信号機や電信柱
という機械的な存在になってしまったというホラーだ。
人は歳増すごとに硬直化していくわけだが、近代には
それを早める装置がある。そういった文脈を持っている。
現代において、どこにでもある我々人間の実態から
この物語は始まる。
 
パンフレットにあるように、子供たちから上がったメインテーマは「願いは叶う」だ。
我々現代人はあまりにも容易に情報が手に入ったり、マニュアル化されている故に、
熟練すればするほど緻密な計算が働き、結果として訪れる状態をかなり明確に予測し、
はなから取り組みの有無を決めてかかってしまう。とても諦めが良い人種になっている。
面白いことに、「目の前の現実は全て心の中の影響を受けている」という、
こんな曖昧模糊な話を物理学者が叫び始めた。計算ではこうだけど、
願うとか祈るとか想うということによってその計算が当たらないという結果が起きるということだ。
自分に嵌まり込み、思考に嵌まり込み、記憶に嵌まり込んでいる。
そういう不自由さの根源からいかに離脱するか?
それがこの物語における作者の意図であり、それはそのまま子供たちの俳優としての
準備作業になった。
 
今回取り組んだ舞台はドラマ劇とした。身振り手振り言葉の内容ではなく、
心から心に伝わるものによって、心癒される演劇だ。
 
この2週間のほとんどを子供たちは清々しいホールで生活した。
よく「役を演じる」というが、これは正確な表現でなく、混乱を生む。
「役を生きる」「舞台上で生活する」が好ましい。
俳優が自分ではないものになって舞台に立ってしまったら、
ほぼ間違いなく観客は見るのが辛くなる。我々はいつからか日々素の
自分を何処かへ仕舞い込んで全く別人を演じている。
現代社会は自分ではないものを演じる人で溢れて出来上がっている。
だから見る者を辛くする。
これは、子供の頃あれこれ周りの大人から注文が飛び交う中を
生きてきたことによる。
「こうした方がいい」「ああそれはダメ」「何をしているの」
そんな親や教師の無責任な善意、それを子供たちは素直に信じる。
そういう善意と素直さが招くホラーがある。
そうして周りの大人たちの要望を全て漏れなく採用し
パッチワークされて出来上がったものが、その子が一生
自分の人生を委ねる思想価値観となる。
また、どうにもひとつの人格にならず統合失調を起こすのだ。
イエス様もお釈迦様も孔子様も、ほかでもないこれが
全ての元凶であることを悟られた。
 
面白いことにドラマ劇はオーソドックスな宗教と
よく似た癒しをもたらす。
その第一の条件が「自分から自由になる」で、
演劇では「第一の壁」と呼び、日常的に自分が常に
提案され続けている状況から自分を解き放つ。
第2第3の壁もあるが、この第一条件が出来ている俳優は
かなり観客を見惚(みと)れさせる。世阿弥が語った「花」だ。
 
この手の劇では観終わった観客が、よかった、感動した、
泣けてきた、ジーンとしたなどその気分を語ることが多い。
しかしその訳を語ろうとしてつまってしまったり、
なんとか言ってみても希薄なものにしかならない。
そうした光景は深い癒しを与えることに成功したことを意味する。
言葉にはならないものが心から心へ伝わったいうこと、
これも世阿弥の言葉「以心伝心」だ。
「なぜだかわからない」のがとても良いのだ。
わかるということは自分のこれまでの思考にはめ込んだということ、
収まらないものは切り捨てたのだ。
エゴには収まりきらない、今の自分以上のものがもたらされる
験(しるし)を得た時、なんだかわからないが感動したとなる。
心から心へ伝わるということは現代にはある意味死語でもあり、
近代社会は意図的に抹殺してきたところがある。
 
今回、子供たちは、このかなり現代人にとって難しい方法に
取り組んだのだが、かなり早い段階でスイスイそれをやってのけた。
いろんな人とこの方法に取り組んできた者からすれば、
その子供たちの素養に驚かされる。
改めてこの教育が12年もしくは15年かけて
先生方が子供の中に育ててきたものの尊さを実感した。

〜「12年生劇を終えて ー2ー」につづく〜
 
(生徒の親 ふくめん演出者 CS)

435A93A5-2B70-4455-86A6-582D5098EACC卒業オイリュトミーはシュタイナー学校での
12年間の学びの集大成の一つ。と聞いていましたが、
見たことはありませんでした。
今回、東京賢治シュタイナー学校の12年生が
初めて愛知でも公演してくれることになり、
賢治の学校の子供たちがどんな姿を見せてくれるのか、
ワクワクドキドキで当日を迎えました。

10人の生徒たちで行われたオイリュトミーは三部構成。
引率の先生方による美しい調べのピアノやフルート、
語りのリズムに合わせて生徒たちが創作した
俳句を交えながら叙情的な雰囲気で進められた第一部。
コミカルな小人たちの動きと白雪姫のメルヘンの世界を
10人それぞれが個性豊かに表現した第二部。
新校舎北棟のホールを余すことなく変幻自在なダイナミックな
D48D5504-FD0A-4585-B177-703829AF13B6フォルムを一糸乱れず繰り広げた第三部。

賢治の12年生たちは指の先まで表現力があり、
見るだけで圧巻。
初めて訪れた会場でも、全員が心を合わせて
一体となったように舞う姿に、
12年間の濃密な時間が垣間見えました。
オイリュトミーは詩も音楽も物語も自由に
表現できる奥深く懐の広い芸術だと感じました。
2時間近くに及ぶ発表が終わり、彼らの表情から
これから社会へ出ていく12年生たちの明るい未来を感じ、
拍手に力が入りました。

見せてもらえる場を愛知にも設定して貰えたことは、
愛知シュタイナー学園の先生方、生徒、保護者にとって、
歓びそのものでした。
来てくれた賢治の12年生と先生方に本当に感謝です。

先日の学内高学年の子どもたちによるオイリュトミー公演に続き、
今回の卒業オイリュトミーを見せてもらえたことで、
新校舎が完成しホールができた喜びを再度感じました。

ここで学んでいく愛知の子どもたちの未来も
ますます楽しみになりました。
(9年生保護者)

先日、北棟ホールで子供たちによるオイリュトミーの発表が行われました。
3404A807-5300-41F1-892B-B14036BFC15Bホールでは和太鼓、アンサンブル、狂言と
いろいろな発表が続いていますが、
グランドピアノも入り音響も素晴らしいと
お褒めのあったホールでの待ちに待った
オイリュトミー発表。
久しぶりなのと、8年生以上の発表ということで、
どんな素敵なものが見れるのかと
ワクワクしながら参加しました。

9,10年生は日本の民話のメルヘン。
メルヘンを見る機会があまりなかった私ですが、
物語にオイリュトミーの動きが加わると、
普通の劇とはまた違う幻想的な雰囲気になるのですね。
E8BCAF69-F2FB-450E-87CD-95AD30C00163 すべてを表現しなくても、先生の語りと4人の動きで、
お話の世界がステージいっぱいに広がり、
楽しませてもらえました。

8年生はかわいらしいエプロン姿で軽やかに
美しくお掃除をする動きを見せてくれました。
狂言発表の時はしっかりと声を出し
堂々としていた彼女たちですが、
今回はちょっと恥ずかしいのかな?と
感じられるかわいらしい演技でした。

卒業間近な生徒が在籍する11,12年生の発表は
いつものカラフルな衣装とは違い、
白と黒の統一された衣装で、
坂本龍一の曲にのせた洗練された
3B750A93-C388-4391-9E5A-BB3FE3C33208美しい動きを見せてくれました。
みんなの顔つきがいつもよりキリっとしていて、
ぐっと大人に近づいている様に見え、
大きな成長を感じさせられました。
彼らと出会った頃は、まだ中学生で
かわいらしさが残っていましたが、
すっかり頼もしい姿になっていました。
わが子を含め、子ども達はあっという間に
成長していってしまうものですね。

オイリュトミーを詳しく理解しているわけではないので、
細かなことはわからないのですが、
いつも見ていて美しと感じるオイリュトミー。
保護者の勉強会でオイリュトミーの動きの体験を時々させてもらいますが、
なかなかうまく動けず、参加者全員で合わせると動きがバラバラに
なってしまうことが多々あります・・・
子どもたちが乱れることなく、秩序ある美しい動きを繰り返し続け
表現できる力にはただただ、すごいなぁといつも感心させられます。

最後にはいつもお世話になっている秦先生もお祝いの演目を披露してくださいました。
このホールが日本ではとても恵まれている環境であること、
新しい次の時代を担っていく若者たちが、この空間を彩っていってくれるように、
などなど暖かいお祝いの言葉も贈ってくださいました。

入学した当時は2棟の新校舎が立ち並ぶ今の立派な学園の姿は
全く想像もしていませんでしたが、全学年の生徒が揃って1つの場で学び、
発表も披露することができる場ができた事を保護者としてとてもうれしく思います。
これからもこの場でよい学びがずっと続き、たくさんの未来を担う子供たちが
巣立っていくすばらしい場になってほしいと願っています。

(4年生保護者)

10FEF96A-D2B1-48AA-9A2D-AE4C8FB862F410月下旬、真新しい北棟ホールにて、
8年生による狂言発表が行われました。
狂言師 井上松次郎先生にご指導いただき、
約1か月間練習を重ねたそうです。
※井上松次郎先生
https://kyogen.co.jp/actor/matsujirou-2/

娘は、家でも熱心に練習していました。
時折、歩き方や日常会話が狂言風になっていたほどでしたが、
狂言独特の抑揚ある言い回しに苦戦している様子でした。

発表会当日。
まずは松次郎先生に分かりやすく狂言について
レクチャーいただき、いよいよ発表が始まりました。

今回の演目は「口真似」でした。
人から樽酒をもらった主人は、酒の相手に面白い人を呼べと
召使である太郎冠者に言いつけます。
太郎冠者がお連れした人は、有名な酔狂人であった。
さあ、どうもてなすかーというお話です。

袴に身を包み、キリリとした姿で登場した8年生は、
普段の恥ずかしがり屋さんの印象から一変、
想像以上に声が出ていて、とても驚きました。

娘は主人の役でしたが、
苦戦していた独特の言い回しも、
家での練習の時に比べて格段に良くなっており、
堂々と演じていました。

後半には会場に笑いが起こり、狂言発表は無事に終わりました。
発表後、8年生の表情には、
終わったことへの安堵と、やり遂げた充実感が感じられました。

余談ですが、
発表当日の学童では、低学年の子どもたちが、
さっそく狂言風の言い回しを真似して遊んでいました。
また、上級生である高等部のお兄さんから、
「狂言 お疲れ様!」と声を掛けてもらう8年生の姿も見られました。

8年生の子どもたちは、
次には8年生劇という大きなプロジェクトが待ち受けています。
今回の狂言にて、表現方法は劇と違えど、
観客に伝わるためには、ゆっくり、はっきり、大きな声でーという
松次郎先生に教えていただいたことを活かして
8年生劇に取り組んでほしいなーと思いました。

このたび、お世話になりました、
井上松次郎先生 本当にありがとうございました。

(8年生保護者)

Copyright (c) Aichi Steiner Gakuen All Rights Reserved.